工程は同じ

1人でモノを作る、というのは、向き不向きがあるし、大変な事だ。技術云々は別としても、思いついたことを形にするまでのチカラを持続すること自体が、けっこう大変なことだからだ。そのチカラを持続させるための燃料として、お金があるのかもしれない。だから短い期間でモノを作って、達成感を味わう、ということを、たくさん経験していくのは重要だ。一日で出来るモノも、1ヶ月で出来るモノも、1年で出来るモノも、工程は同じだからだ。そういうことをちょくちょくやっていかなきゃいけない。

不思議

さて、悶々とした状態から抜け出した、と以前エントリで述べておきながら、実のところは、抜け出たりまた戻ったりを繰り返していたこの1ヶ月くらいだった。
http://d.hatena.ne.jp/eborat/20070128/1169972963
それでも、

「現実におこる出来事は、単なる善と悪の戦いではなく、1対1のわかりやすい構図でもない。そしてたいていの場合、物事が大きく動く時は、当事者たちによってではなく、それとは別のもっと大きなものによって動く。」という言葉を僕も信じている。

この考え方に関しては揺らぐ事はなく、実際に事態がそのように動くことを今回も体験し、確信を深めている。人生は不思議だ。
この4月から職場の環境が大きく変わる。仕事が出来る人たちも、1人、また1人と離れていく。離れていく人にネガティブな感情は全くなく、気持ちよく送り出す気分でいる。おそらく僕も1年後は同じ職場にいないだろう。その間に、自分1人で出来る事を模索するつもりだ。

ファンタジーの変遷、そして愛するファンタジスタ達。

華麗なる一族」をご多分にもれず、見ていたりする。
北大路欣也の「顔面=セット」とも言われるすばらしい表情の演技、彼が演じる万俵大介の行動の器の大きさ(頭を下げるシーンに惚れ惚れする)に痺れながら、ドラゴンアッシュの曲が流れるドコモのCMが流れると、嫁と二人で曲に合わせてマラカスを振るまねをして踊ったりした。ドラゴンアッシュのあの曲は、彼らが日本のHIPHOP勢と一緒になってチャートを席巻していた時代に多感な時期を過ごした自分にとっては、なんだか我々へのレクイエム、あるいは時代を達観した仙人のフォークのようにも聞こえるのだけれど、まあそれはいつか別の機会に書くとして。

僕が「ファンタジー」という言葉を放つ時、その言葉の定義として、過去に「3年B組金八先生」に対して賞賛の言葉を述べた際書いた、「リアリティを見いだすための手段」という意味が含まれていることについてまず述べておきたい。http://d.hatena.ne.jp/eborat/20050225

その上で、夜9時のテレビドラマほど、良質のファンタジーを要求される媒体も無い、と僕は言おう。何せ観客は自らチャンネルを選択し、どうか違う世界へ連れて行って欲しいと、期待の眼差しで画面を見つめているのだ(過去において「ブラウン管を見つめている」という言葉があったことについても何か書きたい。それは液晶やプラズマといったディスプレイを見つめることとは違う意味を持っているはずだ)。映画という媒体においては、ファンタジーだけでない、ある種の表面的なリアリティや、批評性や、芸術性が求められることもあるけれども、夜9時のテレビドラマについては、ひたすらにファンタジーが求められる。そうだ。僕はそう言おう。
そう言うならば、ファンタジーという、作り手が産みだす外殻に、どのようにこの世界に蠢くリアリティを落ち着かせるのかというところが、夜9時のテレビドラマのテーマであるとも言えるようになる。このテーマは、作り手側が非常に高い位置から視聴者を見下ろしている、この一種独特のメディアの図式をも示しており、テレビドラマへの期待よりもむしろそれがもたらす危険に、我々が注意を引かれる理由も理解できるようになる。
つまり、作り手側は、結婚をほのめかした上で様々な資産を騙し取っていく冷徹な詐欺師のようにも、母親の乳房にマジックで変顔を描いて乳児を乳離れさせる愛情深い両親のようにも、自由になれるわけである。
その点で「華麗なる一族」は後者に近いと僕は評価しており、ファンタジーの提供として及第点を達成していると思っているのだけれど、僕が今回書きたいのは、それらをふまえた別のこと、つまり、そのファンタジーそのものの変遷についてである。

例えば、この2007年における「華麗なる一族」の魅力の1つ(原作が出版されたときの事はこの際どうでもいい)は、作品の舞台が異世界であることにある。当然、ターゲットとしての視聴者は、自分が華麗なる一族ではないからこのドラマを見ている。だから、その過度な華麗さが、ファンタジーを形作る要素として活きる。お屋敷や、財閥や、師弟制度や、華道や茶道といった閉鎖性の象徴、といった昔から使われてきたシチュエーションがドラマの王道パターンとして存在するのはそういった理由だ。そのような表現を突き詰めたものとしては、「華麗なる一族」の戦い方はすばらしいと評価できる。
しかし、そのような表現はいくらテレビとはいえ、この2007年以降、本当に通用するのだろうか。つまり、そのような要素で形作られたファンタジーではもはや包めなくなるほど、この世界は肥大し、活発で、残酷なのではないか?
ファンタジーの戦史を否定したいわけではない。この世界が続く限り、ファンタジーが消え去ることはないし、その名の元に行われてきた戦いは、いかなるものであったとしても価値がある。ただ、その名を僕達が背負い続けるためには、常にさらなる進化をし、次の形を提示する必要があるのも事実だ。残念ながら、敵がさらに暗く強大になっている以上、手を休めているわけにはいかない。それは死を意味する。火曜サスペンス劇場の終焉は、そのわかりやすい象徴の1つだ。僕達は疲弊しながらも、互いに励ましあいながらただひたすらに進むことが必要だ。

サイの角のようにただ独り歩め。-THA BLUE HERB

このテキストを書くに際し、はてなブックマークで知ったミドリカワ書房、そして「華麗なる一族」の裏番組「爆笑レッドカーペット」で見事にネタをやりきった柳原可奈子が、僕に大きな動機を与えてくれた。2007年に必要なファンタジーを、彼らは見事に提示している。

Youtubeにある、ミドリカワ書房の6つのPV「OH!Gメン」「I am a mother」「母さん」「恍惚の人」「バカ兄弟」「恋に生きる人」、そして検索して見つけたインタビュー記事。これらだけでも、彼の示すファンタジーの新しい形を知るには十分だと思う。リアリティとファンタジーが表裏一体に、さらには完全に逆転した衝撃と、なおかつそれが生粋のファンタジーでであることを、僕達は彼の紡ぎだす詩から知ることができる。
柳原可奈子については、様々なお笑いオーディション番組や、近年ではエンタでの奮闘も見ている。彼女もまたリアリティとファンタジーの一体化・逆転化に成功している。今年僕たちは彼女の活躍を大いに見るだろう。
彼らは、例えば饅頭の旨さしか知らない僕達に金つばの良さを教えるような伝道師であり、この世界の不都合な真実を愛すべきものとして提示できる表現者であるとも言える。
彼らのようなファンタジスタこそこの時代にふさわしい。人が知らずに作り出してしまう純粋なファンタジーをめざとく見つけ出し、それを美しく、わかりやすく我々に提示してくれる稀有な芸術家達を、僕は期待しながら見つめている。

この戦いから目を背けてはいけない。
まだ見ぬ明日のために。この世界を、大きく希望で包み込むために。

そして遅ればせながら

ニンテンドーDS Lite クリスタルホワイト【メーカー生産終了】

ニンテンドーDS Lite クリスタルホワイト【メーカー生産終了】

今朝方、ゲットしました。
さーて、ソフト何買うかなー。

全てが「家族」になるゲーム。

月曜の朝、泣きながらクリアした。
これは否定も肯定もさせないゲームだ。


「家族とは何か」を考えさせられるのだろうと思っていた。
でも違っていた。
「家族なんだ」と思った。ただ、それだけだった。


ゲームそのものも然り。そしてこのゲームを受け取るに至るまでの、"開発中止"さえ含む"開発過程"すら、俺達に「家族なんだ」と思わせる要素の1つになった。
3Dで実現するはずだった、2度と生まれないこのゲームの過去の形について、思うことさえも。


ほぼ日刊イトイ新聞」を始めてからのイトイの凄みは、このゲームに詰まっているように思う。
少なくともコピーライターとして生きていたころのイトイは、本質的に孤独だったし、それこそが凄みだったのではないかと思う。仕事では圧倒的な強さで周りを寄せ付けず、金を手にし、体制や流行に反抗していたように、僕には思える。それは本当に魅力的だった。


しかし、そんな朝青龍のような孤高の強さを発揮し続け、他を寄せ付けなかったイトイに与えられた、血でも才能でもただの馴れ合いでもないつながりを持った「家族」が「ほぼ日刊イトイ新聞」だと、僕は思う。


社員はもちろんのこと、ギャラも払わずにトークに来る、著名人・無名人たち。このゲームに関連するところで言えば、任天堂もその「家族」の1人だ。そして、私も含む、顔も名前も仮定の読者達。ひいては、ゲームを受け取る人々。


全てが「家族」になる。


このゲームの、
ひいてはイトイの、
そして「ほぼ日刊イトイ新聞」の凄みは、そして怖さは、全てそこにある。


イトイは、このゲームのプレイヤー全てを「家族」にしてしまった。
GoogleもYahooもMixiも使わず、Web2.0というキーワードなど、鼻で笑いながら。
この先MOTHER4が出ようが出まいが、そんなことはどうでもいい。俺たちはすでに「家族」だからだ。それは逃れるとか逃れないとか、否定とか肯定とか、そういうことじゃない。


この、背負わされてしまったとも、与えてくれたとも言える「家族なんだ」という意識を、いったい俺達はどう昇華すればいいのだろうか。
その答えに明確なモノをあえて出そうとするなら、それは完全にポジティブな、「生きる」という答えしかない。


これは凄い。本当に凄い。

悶々の先にあるもの

前回のエントリに書いた悶々とした状態から、なんとか抜け出す事ができた。
たくさん悩んだ末に、目の前におかれた2つの出来合いの道の、どちらを選ぶでもなく、自分の道を1本用意し、出来合いの2つの道の主に提示する事ができた。
その道が彼らにどう映るのか、今は楽しみですらある。そのリアクションですべてを決めようと思うし、決まると思う。
以前どこかで宮崎駿が「もののけ姫」制作時に言っていた(定かじゃないがそう記憶している)、「現実におこる出来事は、単なる善と悪の戦いではなく、1対1のわかりやすい構図でもない。そしてたいていの場合、物事が大きく動く時は、当事者たちによってではなく、それとは別のもっと大きなものによって動く。」という言葉を僕も信じている。
この世の中は0と1でできている訳ではないので、目に見えている事のその先を見る事が重要だと思う。それはあたかも「もののけ姫」でアシタカが、自分の不治の病の原因について「曇りの亡い眼で見て、決める。」と迷いなく言ったように。
自分の信条に違いのないよう悩み、考察し、ようやっと自分の道を1本用意する事ができた今回の一連の出来事は、これからの自分の人生に非常に大きい影響を及ぼすと思う。

この世界は戦争なのだよ

落ち着かない。全然文章が書けない。
ここ数週間で、自分をとりまく環境が大きく変わりつつある。
Perfumeの「パーフェクトスター・パーフェクトスタイル」を聞きながら、「パーフェクトスター」ってなんだろうと考えている。
少なくとも、確実に3年前の僕はこの世界の塵のように扱われていたし、正直、病んでいた。
実際僕の手から出るモノはこの世界の屑のようなものばかりだったし、そのように扱われてもしたがない存在だった。
そんな自分が、今、複数の場所から求められている。
戸惑っている。どうして平和は長続きしないのだろう。
いつかどこかでしたかもしれないように、まただれかを裏切ってしまうかもしれない。それでも。

ありのままゆらがないように
後ずさりなんかできない

愛の前に悩まないように
後戻りなんかできない