ファンタジーの変遷、そして愛するファンタジスタ達。

華麗なる一族」をご多分にもれず、見ていたりする。
北大路欣也の「顔面=セット」とも言われるすばらしい表情の演技、彼が演じる万俵大介の行動の器の大きさ(頭を下げるシーンに惚れ惚れする)に痺れながら、ドラゴンアッシュの曲が流れるドコモのCMが流れると、嫁と二人で曲に合わせてマラカスを振るまねをして踊ったりした。ドラゴンアッシュのあの曲は、彼らが日本のHIPHOP勢と一緒になってチャートを席巻していた時代に多感な時期を過ごした自分にとっては、なんだか我々へのレクイエム、あるいは時代を達観した仙人のフォークのようにも聞こえるのだけれど、まあそれはいつか別の機会に書くとして。

僕が「ファンタジー」という言葉を放つ時、その言葉の定義として、過去に「3年B組金八先生」に対して賞賛の言葉を述べた際書いた、「リアリティを見いだすための手段」という意味が含まれていることについてまず述べておきたい。http://d.hatena.ne.jp/eborat/20050225

その上で、夜9時のテレビドラマほど、良質のファンタジーを要求される媒体も無い、と僕は言おう。何せ観客は自らチャンネルを選択し、どうか違う世界へ連れて行って欲しいと、期待の眼差しで画面を見つめているのだ(過去において「ブラウン管を見つめている」という言葉があったことについても何か書きたい。それは液晶やプラズマといったディスプレイを見つめることとは違う意味を持っているはずだ)。映画という媒体においては、ファンタジーだけでない、ある種の表面的なリアリティや、批評性や、芸術性が求められることもあるけれども、夜9時のテレビドラマについては、ひたすらにファンタジーが求められる。そうだ。僕はそう言おう。
そう言うならば、ファンタジーという、作り手が産みだす外殻に、どのようにこの世界に蠢くリアリティを落ち着かせるのかというところが、夜9時のテレビドラマのテーマであるとも言えるようになる。このテーマは、作り手側が非常に高い位置から視聴者を見下ろしている、この一種独特のメディアの図式をも示しており、テレビドラマへの期待よりもむしろそれがもたらす危険に、我々が注意を引かれる理由も理解できるようになる。
つまり、作り手側は、結婚をほのめかした上で様々な資産を騙し取っていく冷徹な詐欺師のようにも、母親の乳房にマジックで変顔を描いて乳児を乳離れさせる愛情深い両親のようにも、自由になれるわけである。
その点で「華麗なる一族」は後者に近いと僕は評価しており、ファンタジーの提供として及第点を達成していると思っているのだけれど、僕が今回書きたいのは、それらをふまえた別のこと、つまり、そのファンタジーそのものの変遷についてである。

例えば、この2007年における「華麗なる一族」の魅力の1つ(原作が出版されたときの事はこの際どうでもいい)は、作品の舞台が異世界であることにある。当然、ターゲットとしての視聴者は、自分が華麗なる一族ではないからこのドラマを見ている。だから、その過度な華麗さが、ファンタジーを形作る要素として活きる。お屋敷や、財閥や、師弟制度や、華道や茶道といった閉鎖性の象徴、といった昔から使われてきたシチュエーションがドラマの王道パターンとして存在するのはそういった理由だ。そのような表現を突き詰めたものとしては、「華麗なる一族」の戦い方はすばらしいと評価できる。
しかし、そのような表現はいくらテレビとはいえ、この2007年以降、本当に通用するのだろうか。つまり、そのような要素で形作られたファンタジーではもはや包めなくなるほど、この世界は肥大し、活発で、残酷なのではないか?
ファンタジーの戦史を否定したいわけではない。この世界が続く限り、ファンタジーが消え去ることはないし、その名の元に行われてきた戦いは、いかなるものであったとしても価値がある。ただ、その名を僕達が背負い続けるためには、常にさらなる進化をし、次の形を提示する必要があるのも事実だ。残念ながら、敵がさらに暗く強大になっている以上、手を休めているわけにはいかない。それは死を意味する。火曜サスペンス劇場の終焉は、そのわかりやすい象徴の1つだ。僕達は疲弊しながらも、互いに励ましあいながらただひたすらに進むことが必要だ。

サイの角のようにただ独り歩め。-THA BLUE HERB

このテキストを書くに際し、はてなブックマークで知ったミドリカワ書房、そして「華麗なる一族」の裏番組「爆笑レッドカーペット」で見事にネタをやりきった柳原可奈子が、僕に大きな動機を与えてくれた。2007年に必要なファンタジーを、彼らは見事に提示している。

Youtubeにある、ミドリカワ書房の6つのPV「OH!Gメン」「I am a mother」「母さん」「恍惚の人」「バカ兄弟」「恋に生きる人」、そして検索して見つけたインタビュー記事。これらだけでも、彼の示すファンタジーの新しい形を知るには十分だと思う。リアリティとファンタジーが表裏一体に、さらには完全に逆転した衝撃と、なおかつそれが生粋のファンタジーでであることを、僕達は彼の紡ぎだす詩から知ることができる。
柳原可奈子については、様々なお笑いオーディション番組や、近年ではエンタでの奮闘も見ている。彼女もまたリアリティとファンタジーの一体化・逆転化に成功している。今年僕たちは彼女の活躍を大いに見るだろう。
彼らは、例えば饅頭の旨さしか知らない僕達に金つばの良さを教えるような伝道師であり、この世界の不都合な真実を愛すべきものとして提示できる表現者であるとも言える。
彼らのようなファンタジスタこそこの時代にふさわしい。人が知らずに作り出してしまう純粋なファンタジーをめざとく見つけ出し、それを美しく、わかりやすく我々に提示してくれる稀有な芸術家達を、僕は期待しながら見つめている。

この戦いから目を背けてはいけない。
まだ見ぬ明日のために。この世界を、大きく希望で包み込むために。