現夢

相方(26で実家暮らし、大学院生)との愛の語らいを久々にしてみて結局大喧嘩になった。
先週私は実家に帰ったわけだがその間相方への連絡はとらなかった。
相方にも予定があり泊まりで友達の家に行く事がわかっていたからだ。それが実際機嫌を損ねていたらしい。
夫婦喧嘩は犬も食わないというが犬にだって選ぶ権利くらいある。なんだって食うわけじゃないんだからこの言い回しは大変失礼だ。話がずれた。
実家に帰った際母が忙しく仕事をして疲れがたまり風邪を引いていたのでその事を話して、親の世話を考えるといつまで東京にいられるかなあと言ったら知れずに燃えていた相方の炎を大きくしたようだ。
長男が親の世話を考えるのは当然だろうが。褒められこそすれけなされる覚えなどフケほどもない。
結婚生活に夢を見るのは構わないしそれは私だって見ている。
しかし生活の中ではそういった夢のように幸福な出来事と、今日何を食いどんな排泄をするかに始まり、ローンや税金の支払い、周囲の人々との関わり、親や親戚との付き合いなどいわゆる雑多な(しかし大切な)出来事が共存しているのだ。
そんなことは当然の事で、これから一緒に暮らそうとしている女にそういう雑多な話をして何が悪い。
思い描くビジョンに深さがないのはその人の個性だから仕方がないしそれがかわいく思える事もある。
しかし思い描くビジョンに幅が無いというのは、もう不幸でありさらに言うならば才能が無いということでもある。
私たちは夢を見るし実現する事ができる。
ただ夢ばかりみていれば叶うのかというとそうではないのだ。
夢を見続けるなら出現する障害物に立ち向かう力が格段に増すから夢を見るのは必要で、障害物を夢の力で全く打ち消して無傷で歩けるわけではないのだ。
また話がそれただろうか?そんなことはないと思う。
結婚するという事は夢であるべきだ。結婚生活も夢であるべきだ。それは叶う。しかし障害はかならずあるのだ。
しかし本当に賢い、幸福な人はその障害に立ち向かう事を喜びとするはずだ。それは夢をみるからだ。

昨日の辛ラーメンの影響が出た肛門をウォシュレットでいたわりながら、私は夢について、結婚について、考えるのだ。