「新しい私」のために。

資生堂の企業広告「一瞬も一生も美しく」のテレビCMが、頭の中をぐるんぐるん回っている。

事ある毎にiTunesに落としたこのCMを見ては、はらはらと涙を流し、脳内は完全に浸食され、資生堂信者にさえなっているのである。


とにかくまずは歌詞だろう。言葉の妙、素晴らしさを痛感させられる。
この、日本的で、哀しくも美しい詩。その自然さ、たたずまい。
「日本のうた」とは、そもそもこういうものではなかったか。
以下は歌詞の引用である。

本日わたしはフラれました

わかっていました、ムリめだと

だけどもあの時少しだけ微笑んでくれたような気がしたから

こんな時いつでも涙を拭いてくれた母さんは今はいないから

忘れます 忘れます 新しい私になって

忘れます 忘れます 忘れられると思います 

忘れます 忘れます 新しい私になって

忘れます 忘れます 忘れられると思います


この詩は、「新しい私」とはなんだろうか、と私たちに自問させ、かつ、その「新しい私」になるために、何かを忘れなければならない私はなんと儚く、そして美しいのだろうか、と私の根本にある自尊心と美意識を見事に奮い立たせ、心を深くえぐる。


またこの詩は、「美しいとは何か」という大きな問いに対して、明確な1つの答えを出して、挑戦しているかのようでもある。
人が絶望から希望を見出す時、そしてそれによって立ち上がろうとする時、また、立っている時。それが「美しい」ということなのではないか。希望のないものなど、例え、立っているとしても、それは醜く、一瞬たりとも美しくはないのだ。
思えば私たちは生を受けた瞬間からそうだ。たとえその世界がどんな世界だったとしても、そこに光を見たからこそ、生まれ出たのではないか。そして、その光を見失っても、どこかにそれがあるはずだと信じていることが、生きているということだ。そのために邪魔になるものを忘れることは容易ではないけれども、それでも私たちは忘れ続ける。まだ見ぬ光のために。「新しい私」のために。


この詩に唯一無二の曲をつけた熊木杏里は、シングルCDでは歌詞を一部変更している。(少しの解説が彼女自身のインタビュー記事にも載せられている。)
CMとして考えた時、他には考えられない絶妙なバランスの歌詞に見事に手を加えることにより、CMとは違った「曲」としての魅力を打ち出している。ただただ、感動するばかりだ。