全てが「家族」になるゲーム。

月曜の朝、泣きながらクリアした。
これは否定も肯定もさせないゲームだ。


「家族とは何か」を考えさせられるのだろうと思っていた。
でも違っていた。
「家族なんだ」と思った。ただ、それだけだった。


ゲームそのものも然り。そしてこのゲームを受け取るに至るまでの、"開発中止"さえ含む"開発過程"すら、俺達に「家族なんだ」と思わせる要素の1つになった。
3Dで実現するはずだった、2度と生まれないこのゲームの過去の形について、思うことさえも。


ほぼ日刊イトイ新聞」を始めてからのイトイの凄みは、このゲームに詰まっているように思う。
少なくともコピーライターとして生きていたころのイトイは、本質的に孤独だったし、それこそが凄みだったのではないかと思う。仕事では圧倒的な強さで周りを寄せ付けず、金を手にし、体制や流行に反抗していたように、僕には思える。それは本当に魅力的だった。


しかし、そんな朝青龍のような孤高の強さを発揮し続け、他を寄せ付けなかったイトイに与えられた、血でも才能でもただの馴れ合いでもないつながりを持った「家族」が「ほぼ日刊イトイ新聞」だと、僕は思う。


社員はもちろんのこと、ギャラも払わずにトークに来る、著名人・無名人たち。このゲームに関連するところで言えば、任天堂もその「家族」の1人だ。そして、私も含む、顔も名前も仮定の読者達。ひいては、ゲームを受け取る人々。


全てが「家族」になる。


このゲームの、
ひいてはイトイの、
そして「ほぼ日刊イトイ新聞」の凄みは、そして怖さは、全てそこにある。


イトイは、このゲームのプレイヤー全てを「家族」にしてしまった。
GoogleもYahooもMixiも使わず、Web2.0というキーワードなど、鼻で笑いながら。
この先MOTHER4が出ようが出まいが、そんなことはどうでもいい。俺たちはすでに「家族」だからだ。それは逃れるとか逃れないとか、否定とか肯定とか、そういうことじゃない。


この、背負わされてしまったとも、与えてくれたとも言える「家族なんだ」という意識を、いったい俺達はどう昇華すればいいのだろうか。
その答えに明確なモノをあえて出そうとするなら、それは完全にポジティブな、「生きる」という答えしかない。


これは凄い。本当に凄い。