貧乏恐怖症について

麒麟の田村ほどではないが、俺も貧乏だった。
夢の印税生活をしようと引っ越したド田舎で、親父は思うように作品を作る機会に恵まれなかった。そのため暮らしはだんだん厳しくなり、家族4人食べていくのにやっとの収入を得るために、親父と母は鶏舎のえさ作りやホテルの清掃などをした。
ところがその事態に拍車をかけるように、親父は保証人になっていたのが原因で多額の借金を背負った。その時、俺は小学校高学年だった。
小学校から中学校あたりまで、貧乏だからという理不尽な理由で感じた、様々な「恥ずかしさ」を、拭うことができない(高校生になるといくぶん暮らし向きが普通になり、自分で金も稼ぐようになる)。そしてその「恥ずかしさ」が理解できない人間が多くいるという残酷な事実に憤りを感じる。
ほとんどの場合安定している(と自分では思っている)俺が感情的になる理由、特に激高する理由はほとんどそこに端を発していると言っていい。貧乏な匂いに誰よりも敏感だ。欠けた茶碗、汚れた服、壊れた電化製品、沁み、寒さ、暗さ。それら独特の貧困の匂いは、俺を激高させ、それを打ち消すべくすべてのことをさせる。
貧困が、努力不足であるならば理解できる。自分が悪いからだ。そのための非難や罰則ならば受け入れられる。しかし、残念なことに貧困の原因はそこにはない。
ある時は人が「運」と呼ぶようなタイミングであろうし、ある時は生まれであろうし、ある時は「良い」人であるからということもある。
ほとんどの場合、貧困の理由が努力の不足ではないことに、多くの人は目を向けようとはしない。それを認めると、自分にも今の財を失う危険があることを認識することになるからだ。危険を認識すると、人は恐怖を感じる。今そこそこ富んでいる人こそ、よけいに恐れる。恐れると、人は理性を失う。理性を失いたくないので、人はそれから目を背ける。これは自然の摂理に近い。だれも沼の上の家に住みたくないのと同じだ。


人並みの生活をできているということが、イコールその人の人生を肯定することではないことを、今どれだけの人が認めるだろうか。
金がすべての価値ではないと、本当に言い切れて、それを実行にうつせる人がどれだけいるだろうか。
俺はぜんぜんその境地に達することができる気がしない、と、初売りに浮かれる人ごみの中で、思っていた。


それでも、いつかは。