しっかりしたインプットとアウトプット

AYS: -007と寅さんの共通点-
http://d.hatena.ne.jp/AYS/20070110#p1

原文は朝日新聞の夕刊らしいので、↑の記事にトラックバックさせていただく。
とても興味深い。この分析の内容よりも、三谷幸喜氏自身が。

落語の枕のようなミニエピソードがあって、それから本編に入る構成。

主人公のホームグラウンドから話が始まって(ロンドン、柴又)、それから世界(日本)各地に飛ぶ筋立て。

主人公を取り巻く魅力的なレギュラー陣(例えて言うなら、上司Mはおいちゃん、発明家Qはタコ社長、ミス・マニーペニーはさくらか)さらにボンドガールにマドンナ。

そしてどちらも名曲中の名曲と言うべき、テーマ曲を持っている。

寅さんと007が似ているとする、この分析に関しては、その通りだとも思うし(既知の事実ながら刑事コロンボ古畑任三郎はそういう位置づけで作られてるし)、そういうふうに言えばなんでもそうなるんじゃん、とも思うのだが、そう考える三谷氏の思考や、愛されるドラマの構成に何か方程式のようなモノを見つけて、さらにそれを自分の仕事で表現してやろうという意欲が見えるのが面白い。テレビドラマ、映画、舞台の脚本を精力的に作り続けながら、依然として情熱が失われていないのは凄いことだと思う。
同じような話で、島田紳助が若い頃、先輩芸人の漫才を全て分析したノートをつけ、そこに見出される法則を自分達流にアレンジして漫才を作っていたというのは有名だが、そういうしっかりしたインプットとアウトプットをすることが、どんな世界に住んでいても重要なことなのだろうと思う。

高野連、知性と愛の無さ露呈

下記ニュースに、ちょっとげんなり。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070110i111.htm

 タレント3人が、大会中の選手の食事や部屋の様子を笑いのタネにしながら紹介する内容。特に、選手の疲労回復のために設置された酸素カプセルで、タレントの一人が故意におならを繰り返して視聴者の笑いを誘う場面があった。

 高野連の田名部(たなべ)和裕参事は「ひたむきにプレーする選手の気持ちを踏みにじるもの」と憤慨している。早実高野連の了解なく、撮影に協力した旅館についても、代表校が利用する「指定宿舎」から除外する方針だ。

つーかまず斉藤クンに意見聞いたらいいじゃん。きっと笑ってくれるよ。
いや、俺もこの番組(めちゃイケ)見てたけど、この反応はありえないわ。。。どんだけ真剣にバラエティ番組作ってるか、ちょっとでも考えたらこんなことは言わないだろうけどなあ。高野連に知性も愛も無いことをアピールしてるようなもんだ。

近くのケーキよりも遠くのケーキのほうが、よりうまうまに見える理由

っぜ…ぜんっぜん欲しくないんだから!
http://www.1101.com/sachertorte/

すっごくうまそうに見えるのは何でか。買ってしまいそうになるのはなんでか考えたよ。1分くらい。
んで、ウチの近くにもうまくて評判の注文制のチーズケーキ屋とか、お菓子の国から飛び出てきたみたいな、こびとのおじさんが厨房にいそうな感じの、いかにも旨そうなケーキ屋はあるんだけど、そこではケーキ買ったことない。これはなんでか。

で、それは結局、実際にケーキ屋でケーキ買うよりも、ネットで買うほうがハードルが低いからに他ならない、つまり俺がめんどくさがりだからだ、ということに改めて気づいたので、安直な道を選ばずにちゃんとケーキ屋でうまうまケーキを実際に見て買おうと思う。めんどくさがらず。
あと、近くのケーキ屋のケーキは、いつでも食えると思ってるから、財布のひもがゆるみづらい。そのへんも克服しないと。もったいながらず。

けっこうこれは今年のテーマかもしれない。

めんどくさがらず、もったいながらず。

しっかしうまそう、ザッハトルテ

貧乏恐怖症について

麒麟の田村ほどではないが、俺も貧乏だった。
夢の印税生活をしようと引っ越したド田舎で、親父は思うように作品を作る機会に恵まれなかった。そのため暮らしはだんだん厳しくなり、家族4人食べていくのにやっとの収入を得るために、親父と母は鶏舎のえさ作りやホテルの清掃などをした。
ところがその事態に拍車をかけるように、親父は保証人になっていたのが原因で多額の借金を背負った。その時、俺は小学校高学年だった。
小学校から中学校あたりまで、貧乏だからという理不尽な理由で感じた、様々な「恥ずかしさ」を、拭うことができない(高校生になるといくぶん暮らし向きが普通になり、自分で金も稼ぐようになる)。そしてその「恥ずかしさ」が理解できない人間が多くいるという残酷な事実に憤りを感じる。
ほとんどの場合安定している(と自分では思っている)俺が感情的になる理由、特に激高する理由はほとんどそこに端を発していると言っていい。貧乏な匂いに誰よりも敏感だ。欠けた茶碗、汚れた服、壊れた電化製品、沁み、寒さ、暗さ。それら独特の貧困の匂いは、俺を激高させ、それを打ち消すべくすべてのことをさせる。
貧困が、努力不足であるならば理解できる。自分が悪いからだ。そのための非難や罰則ならば受け入れられる。しかし、残念なことに貧困の原因はそこにはない。
ある時は人が「運」と呼ぶようなタイミングであろうし、ある時は生まれであろうし、ある時は「良い」人であるからということもある。
ほとんどの場合、貧困の理由が努力の不足ではないことに、多くの人は目を向けようとはしない。それを認めると、自分にも今の財を失う危険があることを認識することになるからだ。危険を認識すると、人は恐怖を感じる。今そこそこ富んでいる人こそ、よけいに恐れる。恐れると、人は理性を失う。理性を失いたくないので、人はそれから目を背ける。これは自然の摂理に近い。だれも沼の上の家に住みたくないのと同じだ。


人並みの生活をできているということが、イコールその人の人生を肯定することではないことを、今どれだけの人が認めるだろうか。
金がすべての価値ではないと、本当に言い切れて、それを実行にうつせる人がどれだけいるだろうか。
俺はぜんぜんその境地に達することができる気がしない、と、初売りに浮かれる人ごみの中で、思っていた。


それでも、いつかは。

2つ前の干支が、当たり前のような顔で。

金華鳥のオスを飼っているのである。
スズメよりもちいさく、オレンジ色の鮮やかな頬とクチバシを持つそいつが家にやってきたのは、3月ごろだったろうか。
冬の終わりに母が死に、春先に妻が実家の愛猫を亡くし、家中に悲しみの色が濃かった時に、生まれて1年しか経たないそいつは、会った瞬間無邪気に肩にとまったりして、僕らを和ませ、家の中に少しのオレンジ色を落としてくれた。
人間にヒナから育てられているから、恐れずなついてくる。平気で肩にとまるし、
ほうっておくと俺の頭の上でまったり落ち着いたりもする。
えさを食べ、水を飲み、羽繕いをし、水浴びをし、世の中に文字通り五万といるであろうピイという名前を付けられ、あっという間に家族の一員となったのである。


ところかまわず糞をする、という欠点はあるものの、それはどの鳥も一緒であり、仕方がない。まあ、鳥かごの中に入れておけばいいし、と思っていたが、恐ろしいことにだんだんと糞が気にならなくなってくる。
かわいさ余って鳥かごから外に出し、一目散に自分の肩にとまったそいつに白い固まりを落とされると、あ、やったな、とは思うものの、その「やったな」は雪合戦の時に雪をぶつけられる時発するのと同じ「やったな」であり、なまじ悪い気ばかりはしていない。
時には糞を見てにやりと笑ったりなどし、今日の調子はどうかななどとも思うし、仕事から帰ってからの夫婦の会話の最初が、やつの排泄物に関してだったりもする。
逆にやらなかったとしても、今日は俺の肩でやらない、お前はえらい、などとほめる始末で、完全に親バカになってしまっている。


しかしちょっと困ったことがあった。この困った、というのも親バカだからなのかもしれないが、ともかく、困ったのである。
巣にいっこうに入ろうとしない。いつも巣の「上に」とまって寝るのである。
与えている巣は、いわゆるつぼ巣、というやつで、その名の通りつぼを横にした形をした藁製の巣なのだが、未知の穴が怖いのか、それとも人に育てられた故に本能をわすれたか、いずれにしろ巣には目もくれない。
寒くなったら入るかと思ったが、11月、12月、まったく入るそぶりも見せず、ついに年を越してしまった。
12月に入って寒い日が続いても巣に入らないのを見て、ああ、こいつはバカなんだと思った。でも大丈夫だ。お前は飼い鳥だ。俺たちはお前を守ってやる。夜寝るときは何重にタオルもフリースもかぶせてやる。お前が帰巣本能という野生のルールを忘れても、それは俺たち人間のせいかもしれないわけであり、それを償ってやるのはあたりまえのことだ。


と、思っていた。


ところがである。
新年が明け、元旦の午後、ふと鳥かごの中を見ると、やつがいない。
扉を開けてはいない。妻と顔を見合わせ、もしかしてとつぼ巣を見ると、やつは何知らぬ顔で、ちょこんと入っていた。
試しに巣草を与えると、せっせと巣に運び、どうやら巣の中に自分の家を作っている。
あのバカな鳥が、本能を忘れてしまったと思いこんでいた鳥が、当たり前のような顔で俺の肩に糞をしやがる鳥が、また当たり前のような顔で、巣から止まり木へ、鳥かごの壁面へ、三角飛びをしながら、せっせせっせとつぼ巣へ巣草を運び、マイホームをつくりやがるのである。


恥ずかしい、バカみたいな話だが、俺は泣いた。
こいつもまた、働こうとするのか。
金華鳥は、オスしか巣作りをしない。それは他ならぬ、メスを迎える用意をするためなのである。こいつはヒトに育てられ、何も親鳥からは教えられていないはずなのに、家族を知らないはずなのに、マイホームを自ら作り、まだみぬ嫁を迎えようとするのか。
ああ、バカは俺の方だと思った。そして清々しい、さわやかな風が吹いた。
こういうことにその都度支えられて、俺はこの一年を、一生を、生きていくのだと思った。




年末雑感

年末の忘年会ラッシュにより胃腸の具合が悪く、屁をブリブリかましながら大晦日前を過ごしている。そんな体調なのでだらだら自分のブログの過去エントリを見返していたんだけれども、ブログをつけはじめてしばらく経って、ようやく少し文章の書き方がわかってきたような気がする、というか、気持ちを文章に乗せるやり方がわかってきた。
なんかこう、スポーツ選手が自分の野球をすれば、とか、相撲取りが自分の相撲をすればいい試合ができる、というのと同じように、自分の文章を書けば他のやつが何言おうと俺は満足、みたいな感覚がなんとなくある。
とはいえ、そんな感覚を味わえているエントリはほとんどないし、ほとんどは高二病みたいなエントリだけれども、来年からはあえてその感覚を求めて文章を書いてみようと思う。
それで見えるものがまたあるだろうから。
もちろん、日々の食事や写メールとか、箸にも棒にもかからないものもアップするけれど。


本年もお世話になりました。来年もまた、よろしくお願いいたします。